2013年7月24日水曜日

1905年の防護巡洋艦「笠置」の姿

 軍艦というものは、必要に応じて改装されて姿が変わっていきますが、「笠置」もいろいろな改装を受けて姿が変わって行きました。

JACAR(アジア歴史資料センター)でざっと検索してみますと、竣工(1898年、明治31年)してから日本海海戦(1905年、明治38年)までに以下のような変更を受けたようです。

・ディンギーを通船(第三通船)に交換(明治30年に申請、明治33年5月28日に取り換え完了*1)
 竣工時に右舷に搭載されていたディンギーは小さすぎたためか、用途がなかったようです。
 
ディンギーの一例*2


・12センチ砲の砲楯の改造(明治37年1月5日、稟申の資料あり)*3


・12センチ側砲のスポンソン改造
 (石炭船を横付けする際に12センチ砲を目一杯後方に向けようとすると、スポンソンの壁に砲盾が当たってしまい、望む角度まで砲を旋回できませんでした。これでは砲身が石炭船に当たって破損する恐れがあり、砲を取り外すこともありました。これでは不便なので、スポンソンを切り広げて、横付けした船に当たらないようになるまで、砲を後方に旋回できるようにしました)
改造後のスポンソン。矢印が拡張された部分。

ただし、1905年の初めまでに両舷のスポンソンを改装したのか、片舷だけを改装したのか判断に迷う資料があります


・後部の8インチ砲の装填用の張り出しを新設。
 (後部甲板の幅が狭いため、8インチ砲を真横から前方に向けた場合は、砲の後ろで装填を行う余地がありませんでした。このため、一発撃つたびに砲を中央よりに戻して、装填した後に砲を向け直す必要がありました。この不便を解消するために、両舷に張りだしを設けて砲が真横から前方を向いた状態でも装填できる場所を設けました)
笠置(撮影時期は不明)

上の画像の艦尾部分。矢印の先に張りだしが設けられて、舷側に影を落としています。



・補助ボイラー(恐らく後部煙突の根元の直前にあるもの)と付属具を陸揚げ
 (力量が不足して用途がなかったため)*4


・臨戦準備として、ボイラー室に通じる通風筒の雁首を陸揚げし、代わりに鉄棒を骨にして、帆布を使って仮製した風入口を取り付け。*4

☆ ☆ ☆
以上の変更の他に、ヤードの位置変更、前後のファイティング・トップの取り外し、それにともなう軽砲の位置変更などが 1905年(明治38年)の日本海海戦以前に行われています(細かい改装はもっとあると思います)。

他に日本海海戦直前に姿が変わった部分がありますが、それについては記事を改めます。

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*1:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10126999000、明治33年 公文雑輯 巻5 艦船2止(防衛省防衛研究所)」#25コマ目

*2:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06090982700、明治26年 公文備考 艦船下巻4(防衛省防衛研究所)」8コマ目より

*3:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06091547000、明治37年 公文備考 巻10兵器1(防衛省防衛研究所)」 29コマ目

*4:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09020083400、明治37~38年 戦時書類 巻46 艦船修理1(防衛省防衛研究所)」